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猿楽・能楽

猿楽というのは、奈良時代に中国から伝来した『散楽(さんがく)』がなまって『さるがく』となったものとされています。猿の字を当てたのは平安時代以降のことです。歌舞や曲芸、滑稽な物まねや言葉芸を、宮廷や社寺の祭礼などの余興として演じていました。鎌倉時代に歌舞劇としての能と、台詞劇としての狂言に分かれ、明治になって能楽と呼ばれるようになりました。
能楽のシテ方には五流あり、そのうちの観世、宝生、金春、金剛の四派は猿楽時代から大和四座と呼ばれており、奈良が発祥の地です。 その観世座と古くから深い関係にあった桧垣本猿楽座は、本町の桧垣本を本拠としていました。本町に拠点を置きながらも、春日若宮社などへも参勤していた桧垣本座は、このほかにも寛正六年(1465年)の『雲上散楽会宴』にも、一族と思われる美濃与五郎吉久と観世大夫の共演が記されています。さらに、室町時代には桧垣本彦四郎などが興福寺大乗院家へしばしば参勤しており『禅鳳雑談』には「笛もひこ四郎上手」と記されていますし、鷲尾隆康の日記『二水記』の享禄二年(1529年)五月三日条には、彦四郎が観世弥次郎とともに勧進猿楽に参加していることが記されています。また、室町時代の伝書『竜吟秘訣』や『笛集』は桧垣本彦四郎ないしは彦兵衛の作とされています。

桧垣本猿楽座には彦四郎や彦兵衛など彦を通字とする猿楽者がいて、代々笛の名手として知られていたようです。 室町時代の終わりごろには、一座に次郎大夫国忠と与左衛門国広父子がでて、ともに太鼓の名人でした。特に与左衛門は織田信長の知遇を得たり、この時代きっての文化人細川幽斎の師匠を勤めたりしています。また、与左衛門は各地の弟子の育成にも力を尽くしていたようで、弟子であった越前北の庄の豪商田那部藤久郎に与えた太鼓胴などのたくさんの資料が福井県で発見されています。  

観世座を通じて中央とも関係をもっていた桧垣本猿楽ですが、本拠地である桧垣本の地を完全に離れることはなく、吉野山天満神社の野際会の楽頭をつとめるほか、慶長十三年(1608年)まで高野山麓の河根丹生神社(現和歌山県伊都郡九度山町)で翁舞を舞っていました。しかし、江戸幕府による大和四座を中心とする統制政策に対応するため、関係が深くまた、当時の観世大夫と縁戚関係にあったことなどから一族をあげて江戸へ赴き、観世の名字を許され観世座の一員となりました。そしてそれまで根拠地としていた桧垣本、そして吉野との関係を完全に断ち切ったのです。それは、自らが研鑽を積んで獲得した優れた技芸を後世に伝えるために、桧垣本猿楽が選択した致し方のない方策でした。一座が江戸に移りその活躍の場をひろげ、芸術性を高めていく一方で、一座を生み育てた桧垣本をはじめ吉野では、やがて忘れ去られた存在となっていったのです。
 
   
 
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